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病院案内

過去の派遣報告

緊急救援

ネパール地震救援事業

派遣期間:2015年6月2日~2015年7月15日
派遣国:ネパール民主連邦共和国
派遣者:青木達矢(事務管理要員)

事業概要

2015年4月25日ネパールの首都カトマンズとその周辺地域をマグニチュード7.8の大地震が襲いました。
この地震により死者約8千人、負傷者約1万6千人、倒壊家屋約40万棟という甚大な被害が発生しました。
この災害に対し日本赤十字社はネパール赤十字社、国際赤十字と連携して即座に対応し、地震発生当日にスタッフを派遣したのを皮切りに、約4か月にわたり医療チーム3チームを特に被害の大きかったシンデュルパルチョーク郡のメラムチ村に派遣しました。
この活動では村の診療所の診療支援や周辺地域の巡回診療、こころのケア、衛生状態の悪化による更なる被害の防止のための健康教育などを行いました。

感想

私は地震発生後約1カ月後に現地に入りました。この地域は非常に険しい山間部であり、元々道路事情が悪かったうえに地震で道路も被害を受けていたため、支援の手が行き届きにくい地域でした。悪路を乗り越えて山間の村に巡回診療に行くと初めての支援が来たということで大変感謝されました。ちょうど雨季に入った時期であり、移動には困難とリスクが伴いましたが、それを乗り越えていくことの価値を実感した活動でした。
また、こころのケアの活動の一環として子どもたちのために、テントの中におもちゃやお絵かきセットなどを用意し、安心して遊べる場所を設置しました。そこで彼らが見せる子どもらしいキラキラした笑顔には私たちが勇気づけられるほどでした。私には彼らの笑顔が復興の光に見えました。

フィリピン中部台風緊急救援事業

派遣期間:2014年1月8日~2014年2月12日
派遣国:フィリピン共和国
派遣者:梅野幸恵(看護師)
青木達矢(事務管理要員)

事業概要

2013年11月4日に南太平洋で発生した台風30号(国際名ハイヤン)は猛烈な勢力を保ったままフィリピン中部を直撃し、レイテ島、セブ島などで約16万人が被災し、死者約7千人、負傷者約2万8千人という甚大な被害をもたらしました。
この災害に対し、日本赤十字社はフィリピン赤十字社・国際赤十字と連携し医療保健チーム3チームをセブ島北端のダンバンタヤン郡へ約3ヶ月にわたり派遣しました。  
この活動では仮設診療所を設置して台風で負傷した人の治療にあたるだけではなく、地域の医療施設が大きな被害を受けていたことから、ケガや病気の更なる悪化を予防するため各コミュニティーでの健康教育や被災者のこころのケアも同時に行いました。

感想

【梅野看護師】
私は2014年1月8日~2月12日までERUチームの第3班として、医療活動と撤収作業に従事しました。フィリピン赤十字社スタッフや地元のボランティアとともに、巡回診療と同時に地元の助産師や住民に対し、病気の予防のための健康教育を計画・実施するのが主な役目でしたが、撤収するために資機材供与、地元の医師や看護師と一緒に診療を行い、患者の処置方法を伝えるなどハードとソフトの両面で地元に引き継いでいくことも大事な仕事でした。
季節は雨季に入る頃で、晴れていれば昼間の外は日差しが強く真っ黒に日焼けし、脱水にならないように気を付けました。滞在中に新たな台風が発生し、最後に外出禁止になる日もあり、撤収作業が間に合うか、という心配もありましたが無事に任期を終了しました。
フィリピンでは医師や看護師は海外に働きに出てしまうため大変少ないです。ダンバンタヤン郡の診療所に赴任してきて間もなかった地元の医師が、「これからは、教わったことを活かし、住民のために頑張っていきたい」と言ってくれた時は本当に良かったと思いました。

【青木事務管理要員】
私は最終班である第3班の事務管理要員として参加しました。発災から約3ヶ月が経つと被災地も落ち着きを取り戻してきており、緊急救援を終了していく時期でした。
しかし、単に撤収すればいいわけではなく、自分たちが行ってきた活動を地元に引継ぎ、支援の効果を持続させて復興支援にもつなげていくような工夫をする必要があります。
また、日本から持ち込んだ資機材も持ち帰るわけではなく、地元で活用できるものはフィリピン赤十字社などに寄贈していきます。
私の役割は、資機材リストップや寄贈手続き、輸送手段の手配や地元関係機関との連絡調整など多岐にわたりました。これらの業務は簡単ではありませんでしたが、多くの地元ボランティアやフィリピン赤十字社のボランティアに支えられて滞りなく行うことができました。この経験を通じて災害救援は「やってあげる」のではなく地元の方々と「一緒にやる」ことなのであると痛感しました。

ハイチ共和国コレラ救援事業

派遣期間:2010年11月15日~2010年12月19日
派遣国:ハイチ共和国
派遣者:青木達矢(事務管理要員)

事業概要

2010年1月12日カリブ海の島国ハイチ共和国で発生したマグニチュード7の大地震により、首都ポルトープランスを中心に人口の5分の1に当たる約210万人が被災し、約21万人が死亡するという未曽有の被害が発生しました。
さらに追い打ちをかけるように地震から1年と経たない2010年10月からコレラが大流行し、約70万人が感染し約8,600人が死亡するという状態に陥りました。
これに対し日本赤十字社はハイチ赤十字社、国際赤十字と連携してコレラの治療と感染拡大防止のため全国の赤十字病院のスタッフからなる医療チームを11月から約6ヶ月にわたり6班派遣し、仮設のコレラ治療センターを設置して緊急救援活動を実施しました。

所感

私は医療チーム第1班の事務管理要員として人事、会計、車両・資機材管理、安全管理、連絡調整などを担当し、医療スタッフを陰で支える立場として参加しました。
現地スタッフの雇用・教育なども行ったのですが、その際には文化的な違いに苦労しました。また、活動場所の調整がなかなかうまくいかなかったり、治安が悪化してしまったり困難の連続でしたが何とか多くの患者さんに医療を届け、チーム全員無事にミッションを終了することができました。
これは私にとって初めての海外派遣でした。事務管理要員は医療スタッフのように直接的なケアは行いませんが、現地スタッフや他国の救援チーム、国際機関のスタッフと連携し国際社会の一員として活動できたことにやりがいを感じることができました。

パキスタン洪水救援活動(ERU)

派遣期間:2010年10月1日~2010年11月2日
派遣国:パキスタン・イスラム共和国
派遣者:原田真理(薬剤師)

事業概要:

2010年7月下旬から季節風の影響により記録的な大雨が降ったパキスタンでは、南北に流れるインダス川が増水し過去80年間で最悪の水害と言われるほどの洪水被害が起こりました。日本の本州と同じ長さ程の広範囲で国土の5分の1が浸水、国民の10人に1人が被災者となりました。フランス赤十字社と日本赤十字社合同の基礎保健緊急対応ユニット(BHC-ERU)のメンバーとして、医療保健活動を行うため1ヶ月間派遣されました。活動地は10月時点で最も被害が深刻であったパキスタン南部に位置するシンド州ダドゥ地域でした。

感想:

主な活動内容は母子外来の開設と巡回診療の立ち上げと活動でした。薬剤師としての私の任務は医薬品や資機材が保管されていた倉庫の整理と薬局の立ち上げ、医薬品管理、母子外来診療補助、巡回診療に同行し現地スタッフへ助言や調剤・処置の補助・栄養状態のチェックやこころのケアなどでした。

巡回診療での患者数は多くて約200人/日、主な疾患は皮膚疾患/下痢/呼吸器疾患/低栄養でした。医療ニーズの他に食料不足、不衛生な環境下での生活、清潔で安全な飲み水の確保ができないなど数多くの深刻な問題がありました。
活動では現地の医療レベルや文化習慣への配慮、相手の立場を理解した柔軟な対応や工夫が大切です。自分の職種としての役割だけでなく、できることは何でもしてチーム全員で協力し合うこと、現地スタッフを主体として活動を行うことも重要だと思います。パキスタン、フランス、日本とそれぞれ違った文化背景を持ったメンバーでしたが被災者を助けたいという思いは一つ、活動上でのいろいろな困難を共に乗り越え、チームワーク良く活動できました。一緒に働いた現地スタッフ自身も被災者で中には子供7人を養っているという大黒柱もいました。汗を流し共に活動した仲間に深く感謝し、みんなの活躍と幸せを心から願っています。この経験を忘れずに今後も災害で苦しんでいる人々の手助けに少しでもなれるように国内外の災害救援に従事していきたいと思います。

スマトラ沖地震・津波災害支援

派遣期間:2005年2月8日~2005年3月6日
派遣国:インドネシア アチェ州
派遣者 :医師 山崎 隆志

概要:

2004年12月26日マグニチュード9.1の大地震と津波により、インド洋周辺の国々は多大な被害を受けました。日赤は国際赤十字連盟と共同でのアセスメントの結果、最も震源地に近いインドネシア、スマトラ島、アチェ州の町ムラボーで救援活動を行うことになりました。第一班はERUとともに12月29日に日本を出発し、1月1日から4日にかけて現地に到着しました。現地ではERUによる診療活動とともに、高台にあり津波被害にあわなかった県立病院の支援(働くスタッフがいないため)を行いました。医療支援は総勢68名で3月30日まで行なわれました。
緊急医療支援後にも日赤は住宅建設、植林防災などの復興支援を続けました。

感想:

私は第4班として2月11日から3月5日まで活動しました。ERUでの診療活動は、これまでの地震災害での活動と同様に、機能を失った診療所の代行ですので、重症症例にはしかるべき施設への転送の手配を行い、軽症症例には創の縫合や処置、骨折の外固定、薬の処方で対処しました。県立病院にも職員が戻りつつあり、県立病院支援の中止と日本からの医療機器の寄付についての交渉を県立病院側と行いました。たくさんの物品を要求されましたが、最終判断は日赤本社でなされたと記憶しています。
国際救援では救援が行き届いていない地域を発見して、そこを救援することが活躍の証になります。ムラボーよりさらに震源地に近いシムルー島には医療援助がなく、第2班がアセスメントした結果、医療援助ニーズがあると判断されましたので、シムルー島救援にゆきました。大西洋を長さ10m程度の漁船で夜中に航行し、大波やクジラが衝突しないかと心配しましたが、海は穏やかで満月が鮮やかでした。これらの移動診療はインドネシア赤十字スタッフが必ず一緒で頼もしく思いました。スマトラ北部にはバンダアチェ独立勢力が反政府活動をしていましたが、赤十字は公平とのことで彼らから攻撃されないという確約を得ていたからです。
シムルー島ではヘルスセンターの機能が停止しており、住民の検診と薬の処方を行いました。モスクでの診療で、多くの住民が見守る中での診療で、すなわちプライバシーは全くなしで、聴診器と血圧計のみによる診察、薬はジュラルミンスーツケース内の抗生物質や鎮痛剤ぐらいの診療でしたが、非常に歓待してもらいました。
スマトラはもっとも蒸し暑い任地でした。インドやケニアでは気温は40℃を超えましたが、乾燥しており、また朝は20℃程度と涼しくなります。しかし、スマトラは湿度が高く、最初は汗疹で体中がかゆく、耐えられるかと心配でした。しかし、人間の体は不思議なもので1週間もすると治ってゆきました。
これで地震災害救援は4回目になり、救援活動の筋道がわかりました。日赤は現状の基礎保険ERU救援(現地の破壊された診療所の代行業務が主となる)を続けるのか、もっと大規模な病院ERUをするのか、など検討する時期かと思いました。実質的な医療救援効果を上げるには病院ERUが有用ですが、それにはさまざまな乗り越えるべき問題があると思いました。

イラン南東部地震被災者救援活動

派遣期間:2004年1月16日~2004年2月13日
派遣国:イラン ケルマン州
派遣者 :医師 山崎 隆志

概要:

2003年12月26日にイラン南東部のケルマン州バムでマグニチュード6.6の直下型地震が発生しました。世界遺産に登録されている要塞都市の遺跡も壊滅しました。住宅の多くが無補強レンガ組石造のため8割以上が倒壊し、死者は4万3000人になりました。日赤はインド地震と同様に基礎保健型ERUと救援チームを2003年12月28日から翌年の3月25日まで派遣しました。アセスメントの結果、日赤はバム市内にERUを展開し仮設診療所を設置しました。
感想:私は第2班として1月19日から2月12日まで活動しました。仮設診療所での診療は前回のインド地震と同様で、重症患者は少なく、壊滅した現地クリニックの代行業務でした。クリニック壊滅のため、高血圧、糖尿病、胃潰瘍などの慢性疾患患者が薬を入手できないために来院するケースが多くありました。救援活動では安価な薬を使用するのが常識で、胃潰瘍の患者に診療所に常備されているタガメットを処方したところ、当時の最新薬オメプラゾンを指定されたのには驚きました。残念ながらタガメットで我慢してもいました。
ハマダンキャンプというテントの避難所にクリニックがないとの指摘を受け、第2診療所を開設することにしました。テントを借り、診察ベッドや机を運び込み診療所の形はできました。電灯の設置、その電力供給など技術職員が多大な貢献をしてくれたので、良い環境で診療を始めることができました。救援活動には医療者以外に事務方、技術職員も必須であることがわかります。
宿舎は赤十字国際連盟のコンパウンド内のテントでした。初めての寒い救援活動でした。食事は赤十字国際連盟の食堂もありましたが、十分な機能しておらず、現地で調達した材料で事務方が作ってくれていたように思います。当初、シャワーは水しか出ませんでしたが後半にはお湯のシャワーになり有難かったことが記憶に残っています。
3人のチームに分けて3日間の休暇を取ることになりました。私のグループはアラビア海を見に行こうという目的で数百キロ離れた、バンダルアッバースという街に出かけました。検問と油田地域を抜け、車で8時間ほどかかり到着しました。ホテル滞在はテント暮らしの身にとってはリラックスできました。休暇が必要とのチームリーダーの判断は適切でした。日本語とペルシャ語の通訳担当のイラン人の職業が旅行代理店だったので、現地のホテルの予約、移動などがスムーズにできました。
イランはトルコと違って、本気のイスラム国です。トランジットのためテヘラン滞在中にバスに乗りましたが、バスは男女別々で、女性はブルカで顔を隠していました。イランの公用語はペルシャ語で数字もふつうのアラビア数字ではなく、全く理解できず閉口しました。しかし、看護師さんでペルシャ語もある程度理解できるようになった人もいて非常に助かりました。

インド西部地震救援

派遣期間:2001年2月25日~2001年3月10日
派遣国:インド グジャラート州
派遣者 :医師 山崎 隆志

概要:

2001年1月26日にインド西部グジャラート州にマグニチュード7.9の地震が発生し、震源に近いブージ(人口15万人)に大きな被害がでました。死者約2万人、負傷者17万人でした。日赤は初めてERU(Emergency response unit=救援と要員の生活に必要な資機材と食料や水などを大きなコンテナにまとめたセット)を用いた医療救援活動を行いました。現地に6トンにもなる医療資機材や生活必要品を搬入し2か月間に41人を派遣し、5555人を診療しました。
日赤は1月28日に第一班をERUとともに派遣し、赤十字国際連盟と合同調査の結果、ブージの西7kmにあるスクパル(人口1万8千人)に仮設診療所を設置しました。ブージにはノルウェーとフィンランド両赤十字社による仮設病院(350床)があり、重症患者は転送するという緊密な協力関係を維持した医療活動を行いました。
感想:私は2月26日から3月11日まで活動しました。すでに発災から1月経過しており、外傷は少なく内科系疾患が多かったです。しかし、日本から整形外科医が来ているとのことで、膝痛や腰痛の患者さんも来院されました。MRIを持参した脊髄損傷患者が相談に来られ、手術適応でしたが緊急援助なので実質的治療はできず、インド内で脊椎専門医を受診するように勧めました。救援活動中には、「日本ならば患者を治せる」という場面が出てきます。人道援助に来ているのですが、できないことは断るのが国際救援の優先順位の高いルールです。地震の救援はいわゆる高度な医療をするわけではありません。状況に合わせた判断、医療を行う能力が国際救援要員には必要です。
仮設診療所での外来診療以外に、移動診療(mobile clinic)を行いました。スクパルの仮設診療所にすら来ることができない山間部の村を車で訪れ医療ニーズの調査をしました。下腿ギプスを一か月前に巻かれたが外せない患者がおり、ギプスカッターなしでギプスを外すのが大変だった記憶が残っています。
診療所ではインド人医師も働いていました。インドの他地域から救援に来ていたのです。日赤が給料を支払っており、日給1500円とのことでそれが、インド人医師の標準的給与だと言っていました。日本人医師がインドに派遣される費用などを概算すると、私は彼らの15倍以上の働きをしないと割りが合わないことになり、国際救援の意義や有効性などを考えるきっかけになりました。国際救援は人道のプロパガンダ、外交、派遣者の能力向上とその還元などの意義があることがわかりました。
宿舎は国際赤十字連盟のコンパウンドでの様々な国からの救援者との共同生活でした。住居はテントで、マットを敷いて寝ましたが、マット一枚では砂埃多く、数枚のマットを積んでベッドのようにして寝ました。食事は毎回カレーでした。私はカレー好きですが、豆カレーや野菜カレーなどタンパク質のないカレーは味気なく、たまに出てくるチキンカレーが待ち遠しかったです。日中は40度を超え、靴にはサソリが潜んでいるような生活で、ときどきダウンする要員もいましたが、すぐに回復し、皆で仲良く救援活動ができたと思いました。

トルコ地震救援活動

派遣期間:1999年8月21日~1999年8月30日
派遣国:トルコ イズミット市
派遣者 :医師 山崎 隆志

概要:

1999年8月17日にトルコ西部でマグニチュード7.8の地震が発生し、イスタンブールから東に104kmの震源地イズミット市が重大な被害を受けました。死者17100名、負傷者は44,000名でした。
日赤は発生翌日に先遣隊を派遣し、計4班が9月下旬まで活動しました。トルコ赤新月社が設置した1,500人の避難テント村に隣接した仮設診療所で外来診療を行いました。
ヨーロッパ各国の赤十字社が大規模な援助を行っており、オーストリア赤十字社は飲料水供給の緊急ユニットを展開し、飲料水を供給していました。また、ドイツ赤十字社とノルウェー赤十字社はそれぞれ、150床、120床の手術ができる仮設病院を設置し大規模な自己完結的な医療を展開していました。まだ日赤にはERU(emergency response unit=救援と要員の生活に必要な資機材と食料や水などを大きなコンテナにまとめたセット)がない時代の救援で、救護服を着用し点滴、抗生物質、消炎鎮痛薬などの各種医薬品とはさみや攝子などの医療機器を入れた大きなジュラルミンのスーツケースを携帯して現地入りしました。

感想:

私は第一班として地震発生1週間後に現地入りしました。イスタンブールに到着し街は無事でしたが、余震を恐れ人々はテントで生活していました。震源地のイズミットでは破壊された建物と救助活動にあたる隊員と異臭が印象的でした。出発前には災害医療としてクラッシュシンドロームなどの対応法を確認し、やる気満々でした。しかし、チームリーダーからは、活動場所や内容は未定で、最悪は何もする事がなく帰国という可能性もあると聞かされました。
実際は、トルコ赤新月社が設置した仮設診療所を活動場所として提供してくれました。しかし、持ち運んだ資機材だけでの医療には限界があり、活動場所だけでなくいろいろな資機材や薬品も現地で入手することになりました。そのためには現地組織との連携が必須で、災害時には、混乱の中で多数の被災者のもとへ適切な救援者を配置する危機管理システムが重要であることがわかりました。
仮設診療所には地震の片づけなどによる軽傷者が多かったのですが、診療所での治療後には安堵の表情を浮かべ感謝して頂きました。医療は実際の病気や怪我を治すこととともに、患者の安心も重要であることを実感しました。
診療現場では最初はカルテがありませんでした。災害時とはいえ冴えない医療であると反省し、A4のノートを切って、カルテにして患者に手渡し、次回から持参するように指導しました。
国際救援の実効性を上げるには、個人の力だけでは難しく、情報、人材、物資のシステム構築が重要でこのような経験が現在のERU体制の確立に役立っていると思います。
日赤救援チームとしての活動であり、外国人チームの一員としての参加とは異なり仲間がいる救援はどこか安堵感がありました。また、トルコはエルトゥールル号海難事件以来の親日国で、日赤の地震救援チームというと誰もが歓待してくれ、国際救援活動の歴史としての意義も再認識しました。
宿舎は被災しなかったイスタンブールのホテルでした。毎日ボスポラス海峡を越え車で2時間かけてヨーロッパからアジアの仮設診療所へ通勤したのが懐かしいです。

紛争地域での活動

バングラディッシュ南部避難民救援事業(ERU第3班)

派遣期間:2017年11月24日~2018年1月11日
派遣国 :バングラデシュ人民共和国(コックスバザール等)
派遣者 :中司 峰生(総合診療科医師)

事業概要

2017年8月24日以来、ミャンマーのラカイン州では暴力行為が相次ぎ、バングラデシュへ避難する人びとは40万人以上にのぼり(9月19日現在・国連発表)、現地では水や住居、食料などが不足しています。医療機関や公的サービスは逼迫した状態が続いています。
日本赤十字社は国際赤十字・赤新月社連盟を通じて、巡回診療型の緊急対応ユニット(ERU)を派遣することを決定しました。現地赤新月社の医療活動を支援する形で、避難者キャンプ等を巡回し、診療等を行っています。私はERU第3班に所属する医師として派遣されました。

感想

私は発端となる武力衝突から約3か月経過した時期での派遣でしたが、依然として食料不足や水不足が顕著で避難民の中に不安感や苛立ちが広がり、不衛生な状況も続いているとの情報がありました。流行性感染症、特に急性下痢症(コレラ)のアウトブレークも時間の問題であるといった分析もあり、緊張感をもっての参加となりました。
実際の避難民キャンプは広大で、小高い山に登って初めて遠く地平線まで無数のテントが広がっていることが認識できました。住居に近づくと汚物や排水による刺激臭が著しく、テント内には多くの住民が密集して暮らしていました。巡回診療所を訪れる患者の多くは膿瘍や皮膚疾患、粉塵による咳嗽など避難民キャンプの生活に由来する症状を伴っており、環境の厳しさに苦しんでいます。

しかしながら、避難民キャンプは完全な絶望の光景ではなく、無数の人々のかわす言葉で喧噪となり、その中を子供は元気に走り回っていました。そういった子供に対しても困難はふりそそぎ、ジフテリアや麻疹、百日咳といった感染症が続けて問題となりました。母国で適切な医療機関への受療の機会を奪われ、ワクチン接種も行われていないような状況が示唆され、緊急支援の枠組みのみでは対応しきれない広くて深い問題に避難民は悩まされ続けています。
大きな困難に対して医師として貢献できたことはごく一部であることを実感しました。それと共に、医療職だけではなく事務員や技術者など多職種からなる各国の赤十字・赤新月社の国際的な組織が連携して支援にあたる重要性を痛切に感じました。赤十字社の一員として引き続き救援活動に貢献させていただければと願っています。

南スーダン紛争犠牲者救援事業

派遣期間:2017年5月8日~9月7日
派遣国:南スーダン共和国(ジュバ、マイウット、ワウ、オールドファンガク)
派遣者:朝倉 裕貴(看護師)

事業概要

赤十字国際委員会(ICRC)は、南スーダン赤十字社と協力して政府と反政府武装勢力の両支配地域の住民、避難民に対して医療支援、食料と生活必需品の配給、給水・衛生設備の拡充、離散家族の再会支援、国際人道法の普及などをおこなっています。
日本赤十字社は、ICRCからの派遣要請を受け、現地に医療要員を派遣し続けている。昨年に引き続き今回私は約4ヵ月間、手術室看護師として、また巡回型外科診療チームの一員として紛争犠牲者に対し医療活動をおこなってきた。

感想

私が派遣された南スーダンは、2011年にスーダンから分離独立したばかりの新しい国であり、国のシステムはまだ十分に確立されておらず脆弱かつ不安定である。また元々ある部族間の争いなどから容易に内戦が起きる状況にあった。

今もなお南スーダン国内の6割以上で内戦は継続しており、兵士だけでなく子供や女性など多くの民間人が犠牲になっている。手術症例は地域によって多少の差はあるものの、主に銃創であり手術全体の約7割を占めている。その他には長期間放置され痛みや腫れが強くなった創部感染、小児の重症熱傷、ヘビやカバなどに咬まれ受傷するなど日本では遭遇することのない症例がみられた。現地ではICRCから治療に必要な器械類や衛生材料などが供給されているものの、それは決して十分であるとは言えず自分達の手で作成するなどの臨機応変な対応が必要とされる。

武力衝突はICRCの活動にも大きな影響を与え、私が2016年に活動した北部に位置するコドックも戦闘により病院は消滅しており、当時一緒に働いた現地の仲間たちの安否も確認できていない。また、今年は私の派遣期間中の7月にエチオピアとの国境近くにある活動地マイウットでも武力衝突があり、スタッフと自力で移動することができない患者20数名を別の活動地に緊急避難させる事態に巻き込まれた。
私は避難する患者を受け入れるための活動地へ他のメンバーと共に先遣隊として入り、大量の資器材を運び込み、病棟の代わりとなるテントの設立、埃まみれのプレハブ小屋を手術室として使えるように改装する作業に当たった。その活動地はアフリカ最大の川、ナイル川に面しており自然は豊かであるものの、主な移動手段はボートとなるため病院へのアクセスは容易でなく、特に雨季は泥まみれでの活動も多くなり、生活も含めかなりタフであった。

現地で活動している私たちでさえ、この状態がいつまで続くのか、状況は改善に向かっているのかどうかもわからない。先の見えない戦いが強いられているが、私たちの支援で助かる命があると確信している。誰かがやればよいではなく、私がやるという強い気持ちを胸に引き続きICRCの活動に従事していきたい。

南スーダン紛争犠牲者救援事業

派遣期間:2016年3月26日~2016年9月25日
派遣国 :南スーダン共和国(ジュバ、コドック)
派遣者 :朝倉裕貴(看護師)

事業概要

紛争地で活動する赤十字国際委員会(ICRC)は、南スーダン赤十字社と協力して政府と武装勢力の両支配地域の住民・避難民に対して、医療支援、食料・生活必需品の配給、給水・衛生設備の拡充、離散家族の再会支援、国際人道法の普及などを行っています。
日本赤十字社はICRCからの派遣要請を受け、現地に医療要員を派遣し続けています。今回私は約6ヵ月間、手術室看護師として、また巡回型外科診療チームの一員として紛争犠牲者に対し医療活動を行ってきました。

感想

私が派遣された南スーダンは2011年にスーダンから分離独立したばかりの新しい国であり、国のシステムはまだ不安定です。また元々ある民族間の争いなどが転じて戦闘へと発展するリスクが高い状況にあります。
紛争による犠牲者は兵士だけでなく、子どもや女性などの民間人も多く含まれます。地域によって多少の差はあるものの、手術症例は主に銃創であり、月120件近くある手術全体の約7割を占めていました。その他にも長期間放置され、痛みや腫れが強くなった創部感染、小児の重症熱傷、ヘビやカバなどに咬まれて受傷するなど日本では遭遇することのない症例が多くみられました。現地ではICRCから治療に必要な器械類や衛生材料などが供給されているものの、それは決して十分であるとは言えず自分達の手で作成するなどの臨機応変な対応が必要とされました。
また今回の派遣の最中に首都のジュバで起こった大規模な武力衝突は私たちの活動にも影響を与えました。戦闘が始まったのは南スーダン共和国の5回目の独立記念日。活動拠点にしていた病院のすぐ横で銃声を確認した私たちは、すべての活動を一時中断せざるを得なくなりました。救護する立場にいる自分たちの命と安全確保が最優先であることは十分に認識していましたが、いざ受傷した人々を目の前にして何もできないことが非常にもどかしく、医療者として今までに経験したことのない辛い思いをしました。

スーダン内戦を経て、独立してもいまだに暴力の応酬に悩まされている現地の人々は教育を受ける機会に恵まれず、字の読み書きができる人は人口の3分の1程度と言われています。医療に関する知識が十分でない上に、戦闘やインフラ未整備を理由に医療機関へのアクセスも困難なため日本であれば助かる症例も重症化しやすく、命を落とすケースも多々あります。
現地の混乱は深まる一方で、医療に限らず継続した支援が必要です。今の自分に何ができるのかを考え、今後もICRCの活動に従事していきたいと思います。

中東地域紛争犠牲者支援事業

派遣期間:2016年7月8日~2016年8月31日
派遣国 :ギリシャ共和国
派遣者 :中司 峰生(総合診療科医師)

事業概要

中東地域の紛争などにより何百万人もの難民が地中海や陸路を経てEU諸国へ脱出を試みました。その途中のギリシャにおいて多数の難民が足止めされ、劣悪な住環境と健康被害、食料不足に陥り人道的危機が顕在化しギリシャ北部の難民キャンプにおいて国際赤十字・赤新月社連盟・フィンランド赤十字社・ドイツ赤十字社が連携して緊急医療支援を行いました。当該医療・保健チームにおける医師として参加させていただきました。

感想

難民の方々は非常に多様であり、衣類から察するに金銭的にある程度余裕がありそうな方から、子供にサンダルを履かせることができない方まで様々で、宗教や民族も異なります。先の見通しがたたない現状において難民のストレスは高く、精神的にも不安定となっている方も多くいました。
テント式の診療所において医師として診療に加わりましたが患者さんの半数程度は小児でした。家族にとっては大切な子供なので非常に心配され、小さい子供の診察については助産師の助けを借りたり、看護師と連携してセルフケアの指導を行ったりしました。診療において多職種の連携が重要なのは世界どこでも同じであると実感しました。一方で、成人の慢性期疾患のコントロールを必要とするケースもあり、臨床的にも様々なケースを経験することができました。

国境を超えることができずギリシャ内での停滞を余儀なくされ、不満も高まっている難民ですが、ある子供の感染症が薬物治療により改善した際には家族から安堵と感謝の入り混じった言葉をいただきました。医師として非常に胸を打たれる言葉であり、この支援事業に参加させていただいていることに私のほうがむしろ感謝の気持ちで一杯になりました。この派遣に参加させていただいてよかったと心から思える瞬間でした。

今回、私自身にとって初めての海外派遣であり、準備段階から色々と戸惑いがありました。武蔵野赤十字病院の国際救援係の経験豊かな派遣経験者から持ち物のアドバイスや出発時に差し入れをいただいたり、現地からの相談にのっていただいたりもしました。ギリシャにいても武蔵野日赤の仲間を身近に感じることができました。病院全体でも応援いただいていることを実感しつつ、無事2か月の活動を終えることができました。

北イラク・クルド地域戦傷外科実地研修

派遣期間:2013年12月10日~2014年2月8日
派遣国:イラク エルビル
派遣者:朝倉裕貴(看護師)

事業概要

日本赤十字社は2012年から2014年まで国際救援・開発協力要員の戦傷外科領域の訓練施設として、イラク北部クルド地域エルビル県にある Emergency Management Center(EMC) で実地研修をおこなってきた。
EMC は戦傷外科患者のみを取り扱う病院として機能しているとともに、赤十字国際委員会(ICRC)の病院と類似した治療方針・患者管理システム等を持っており、今後ICRCの医療要員として派遣要請に応えるために実践的な戦傷外科患者の治療・看護を習得することを目的とし研修を展開してきた。私は約2か月間、手術室看護師として現地に派遣された。

所感

私が派遣された期間中は、首都バグダットやキルクークを中心にテロや抗争が頻発しており、入院患者の予定手術をこなしながら、車で数時間かけて運ばれてきた緊急手術を要する患者の対応に昼夜関係なく追われる毎日であった。
手術症例としては、銃で撃たれたことによる四肢の粉砕骨折や主に腸などの内臓損傷例、爆発による外傷性の四肢切断や爆風によって飛ばされたガラス片や石などが体中に刺さる症例、熱傷や皮膚欠損に対する皮膚移植などが行われていた。日本では遭遇することのない症例ばかりを、現地の医師と共に試行錯誤しながら手術をおこなった。日本のように満足な器械類や衛生材料はないため、「あるものでどうにかする」「なければ作る」が現地の考え方であり、創造力と柔軟な感性が求められた。完璧を求めず、いい意味で妥協点をみつけることも途上国で働くうえで大切な要素であると感じた。
イラクだけではなく、イスラム教を信仰する国や地域ではみられることであると思うが、スタッフにとって毎日数回行われるお祈りは大事なイベントであり手術中であろうが患者を部屋に残し、お祈りに行くのは当たり前であるということ。当初は驚いたが、私がひとりで患者の対応をしていれば良いだけのこと、10分もすれば帰ってきて何事もなかったように手術は再開される。
また電気供給が不安定なため手術中に停電し、周囲は真っ暗に。日本のように自家発電に切り替わるということもないため、暗闇の中ただただ電気が復旧するのを待つことも日常茶飯事であった。

どんなに劣悪な環境でも確かな知識と技術、創造力と少しばかりのユーモアで助けることができる命はたくさんあることを学んだ。普段大きな病院で人・物がありすぎるぐらいの環境で働いている私にとっては色々と考えさせられる2か月間であった。しかし、助けることのできない命があるのも事実、理不尽なテロや破壊行為に憤りを感じた毎日でもあった。そんな時、現地スタッフが私に言った。
「道を歩いているだけで命が脅かされる。これがイラクなんだよ」
その言葉が今も深く心に残っている。

北イラク・クルド地域戦傷外科実施研修

派遣期間:2011年11月22日~2012年2月20日
派遣国:イラク共和国クルド自治区エルビル
派遣者:梅野幸恵(手術室看護師)

事業概要:

日本赤十字社は2011年から2014年まで、とイラク赤新月社との協定により、イラク北部クルド人自治区アルビル県にある戦傷外科病院Emergency Management Center(以下EMC)で、日本で経験することの出来ない地雷や銃創などの患者の治療・看護を習得することを目的に、国際救援・開発協力要員を派遣しました。将来赤十字国際委員会(以下ICRC)の展開する紛争地域での戦傷外科病院や手術を行う外科チームで活動できる人材を育成し派遣することを目的とした研修でした。私は主に手術室看護師として派遣されました。

感想:

エルビルから更に北のトルコとイラクの国境付では、今現在も続くクルド人系民兵組織がトルコからの独立紛争を続けていました。その前線からも数時間かけて地雷で両足を吹き飛ばされた負傷兵が運ばれて来ました。大きな油田のある近郊のキルクーク県からの爆弾テロの被害者が運ばれてきました。普段の街の中の市場で流れ弾に被弾した患者、家庭でのいざこざでも散弾銃で被弾したりするケースもありました。
アルビル県は、バグダッドから300㎞程離れており、クルド人独自の政治機能を持った地域で、アメリカなど外資系のホテルや会社もあり比較的落ち着いていました。
病院には、集団テロ被害で犠牲者が大勢出た時のマニュアルがあり、エルビルでの当時5年に起きた爆破テロの話をスタッフから聞かされました。いつ集団テロが起き、一度に大勢の怪我人が運ばれてくるかわからないことを思い知りました。ある日救急外来で勤務していると、銃被弾した患者が一度に6名程運ばれて来たときは騒然として、それぞれの患者を2人一組で素早く全身を観察し止血して銃弾の入り口と出口を見つけ、傷の重い患者から手術室へ運び緊急手術の介助を行いました。粉砕骨折をともなっており、銃弾を取り除き創外固定を行いましたが、傷が汚いので、綺麗な組織が盛り上がるまで3日毎に手術室で死んでしまった組織を取り除き、傷が綺麗になれば縫合します。何度も組織を取り除き、筋組織が大きく欠損するので、植皮を行いました。医師が少ないため、手術室では看護師が傷の縫合など術者の助手の役割を担うこともありました。器械も衛生材料も薬品も日本のようにふんだんにはありません。最初は戸惑いましたが最低限の治療でも、患者自らの治る力があるということを再確認しました。

イスラムの文化の中で特に男女間の習慣の違いが印象的でした。男性患者はなるべく男性看護師が、女性患者はなるべく女性看護師が処置をし、食堂で食事の時には男女一緒のテーブルにはつかないなど神経を使いました。またいつ命の危険が及ぶかわからないという日本では感じられない危機的環境に身を置く緊張感と、そのストレス解消をすることの大切さも学びました。

スーダン紛争犠牲者救援

派遣期間:1998年8月19日~1998年11月24日
派遣国:ケニア ロキチョキオ
派遣者 :医師 山崎 隆志

概要:

1983年に勃発した第2次スーダン内戦の犠牲者のため赤十字国際委員会(ICRC)は、これまでの食糧救援に加え、1987年に外科病院を開設し医療救援を開始しました。病院はスーダン国境から20kmのケニア領内のロキチョキオという小さな村に作られました。戦地から離れた場所にあるのは、安全に医療活動を行うためです。患者は物資運搬用トラックや食料配布のためスーダンに入る飛行機の帰り便で運ばれてきました。2015年に公開された映画「風に立つライオン」はこの病院がモデルです。
病床数は約500床ありますが戦闘状況により患者数が変わりますので、対応可能なよう多くはテント病棟でした。定時手術は月曜から土曜まで毎日約20件行われました。四肢外傷の洗浄と掻破、切断、植皮、骨折の牽引ピンの挿入が主な手術でした。腹部外傷患者は時間と距離によりトリアージされており多くはなかったのですが開腹手術がこの病院でのmajor surgeryでありました。3分の1は戦争犠牲者ではなく現地住民患者の診療で、マラリア、アメーバ赤痢や寄生虫病などの内科疾患治療、産科疾患、鼠径ヘルニア、外傷などでした。
外科医1名、麻酔科医1名のチームが二つあり、それを指導的外科医1名が管理する体制で、外科医は受け持ち患者が約250名で、週に一回の病棟回診で手術適応などを判断する必要がありました。看護については赤十字から派遣された病棟看護師、手術室看護師が現地スタッフを指導し、病棟での創傷管理や手術適応について外科医への進言を行いました。病院管理者はヘッドナースが務めており、医療以外の面においても統制がとれていました。

感想:

私は日赤医師として最初の派遣者でした。本社では「使い物にならないなら帰国させられる、次に日赤医師が派遣できなくなる」と脅かされ緊張して出発しました。実際にドイツ人外科医が、私が到着して2週間後に帰国させられ、ただの脅しではなかったと分かりました。代わりにICRCから指導的外科医としてクリスが派遣されてきました。クリスからは腸の縫合など教わりましたが、3週間後には別の指導的外科医グンタに交代し、グンタは私に開腹手術の術者になる必要なしと指示しました。専門でないことをしなくてもよいという安心感より、major surgeryの術者ができず忸怩たる思いが強く残っています。戦傷外科では整形外科医が最も得意とする骨折の観血整復内固定術が禁忌であり、生命に直結する腹部外科が重要で、戦場では整形外科医より一般外科医が向いていると思いました。最終的には、帰国直前のグンタとのデブリーフィングで、次のmissionにも推薦するとの評価を得てほっとしました。
日本にはない疾患や外傷を診る機会がたくさんありました。10㎝もの骨欠損のある銃による骨折が牽引で治ったり、下肢の半分もある巨大な軟部組織損傷が、洗浄と掻破で2次治癒したり、人間の治癒力の素晴らしさを実感できました。一方、破傷風患者は胃瘻を作りペニシリン投与を続け回復したかと思ったら突然亡くなり、マラリアの幼児はキニーネを点滴しても助からない例もあり、人間の脆さも実感しました。
私達が現在行っている日本の医療は、医療全体からみるとその一部の分野でしかないことがわかります。医療、人間の治癒力、社会の連携など幅広い視野を身に着けることができるので若い医療者には国際救援活動に参加してもらいたいと考えています。

復興支援

2016二国間 フィリピン中部台風復興支援事業

派遣期間:2016年4月2日~12月30日
派遣国:フィリピン共和国
派遣者:渋谷 美奈子(看護師)

事業概要 

2013年11月4日に南太平洋で発生した台風30号(国際名ハイヤン)は猛烈な勢力を保ったままフィリピン中部を直撃し、レイテ島、セブ島などで約16万人が被災し、死者約7千人、負傷者約2万8千人という甚大な被害をもたらしました。 この災害に対し、日本赤十字社は緊急支援の医療支援に引き続き、セブ北部において復興支援活動を3年間行ってきました。復興支援では、住宅支援、生活向上支援、地域防災、水衛生支援、保健活動という5つの分野を展開してきました。私は、保健活動、水衛生活動の管理要員として、9カ月間、復興支援事業に携わってきました。

感想

私にとってフィリピンは2013年の開発事業に続き、2回目となりました。前回の派遣の経験のおかげで、フィリピン赤十字のスタッフも知っている人が多く、話をしやすいという面もありました。事業自体は前回の開発よりも多岐にわたるため、現地のスタッフやボランティアの人数も多く、前回よりも事業管理ということの難しさも感じました。 もともとは台風被害の支援からの復興支援ですが、地域の人たちが継続して保健や衛生、病気の知識を活用してくれたり、日赤が整備した水のタンクや保健室、医療道具などを適切に使用してくれたりしたらいいなと思います。

開発協力

ウガンダ北部医療支援事業

派遣期間:2015年7月8日〜11月8日
派遣国:ウガンダ
派遣者:塚本可奈子(産婦人科医師)

事業概要:

ウガンダ赤十字社、日本赤十字社の二国間合意による医療支援事業で、外科医不在のウガンダ北部地区(パデル県)において、住民が外科治療を受けることができる体制を構築することを目的に2010年4月から始まりました。具体的には、カロンゴ病院(アンブロゾリ医師記念病院)に日本国内の赤十字病院より外科医、看護師、薬剤師を継続的に派遣し、外科診療を総合的に支援し、派遣した職員による、地元職員への指導・教育・育成を行っています。

感想:

ウガンダでの外科疾患の多くは、主に環境と栄養が劣悪なためにできる大きな膿瘍の切開排膿です。日本ではみたことのない大きな膿瘍を、思いっきり切開し、膿を外に出します。多くの患者は、劇的に良くなり、非常に感謝されます。それ以外に、命に関わるものとして急性腹症(腸閉塞、腸重責、虫垂炎、消化管穿孔)の手術があります。限られた設備、道具、マンパワーで最善を尽くすしかありません。ウガンダで働くと、日本での当たり前の医療環境がいかに恵まれているかを痛感します。
何かがないと出来ないというよりは、これで何とか最善を尽くすという創意工夫の姿勢が身に付いたように思います。また、貧しく奨学金をもらいながら,時間がかかっても夢を絶やさず自分の目標とする医師になるための努力をしているウガンダの若い医者との出会いも刺激になり、私自身沢山のことを学びました。

ウガンダ北部医療支援事業(ウガンダ赤十字社と日本赤十字社の二か国間事業)

派遣期間:2014年2月12日~2014年5月10日
派遣国:ウガンダ共和国
派遣者:原田真理(薬剤師)

事業概要:

ウガンダ北部保健医療サービス(特に外科診療分野)の復興のため、2010年4月より首都カンパラから車で9時間のウガンダ北部カロンゴにあるアンブロソリ医師記念病院(通称カロンゴ病院)に日赤外科医の継続的な派遣が開始されました。手術を含む外科診療支援と現地若手医師の育成を行ってきました。2014年2月より外科診療を総合的に支援するため、看護師と薬剤師の派遣も始まりました。カロンゴ病院は1957年に設立、20年以上続いた内戦時は戦傷外科病院として機能し多くの命を助けました。また、人口約80万人の地域にある唯一の病院として、地域の貧しい方々に医療提供を継続している病院です。

感想:

薬剤師の初派遣者として、薬剤師の支援事業の立ち上げという大きな任務を頂きました。現状把握/調査⇒活動計画⇒実際の活動⇒事後調査⇒評価、一連のプランを立て、実際の活動も行いました。自分が主導で行うのではなく、常に現地スタッフと話し合い活動を進めるように心がけました。現地では必要な薬が必ずしも手に入るわけではなく、3ヶ月毎に薬を発注し届くまでに約1カ月かかります。薬の使用量をきちんとモニターし、適切に発注と供給すること在庫管理がとても重要です。薬を無駄なく適切に使用するところに改善の余地があることがわかり、医薬品管理と医薬品の適正使用(処方・調剤・投薬)を改善するために病棟管理薬の5Sとユニットドーズシステム(患者毎に薬を準備し払い出すこと)を導入しました。これにより薬剤部スタッフが専門知識を生かし薬の適正使用チェックに参画できるようになり、仕事に対するモチベーションが上がりました。また配薬間違えなども減り、医療安全面の改善にも繋がりました。
文化や習慣の違いなどを超えて、No Pain! No Gain! 現地の薬剤部スタッフと一緒に力を合わせて頑張りました!
生きることに一生懸命で温かなカロンゴの人々と会えたことにとても感謝しています。
日赤薬剤師の派遣が終わった後も、導入したシステムが現地スタッフの手で継続され、みんなのためになっているという話を耳にしとても嬉しかったです。
アポヨ マテック(アチョリ語でどうもありがとう)

フィリピン保健医療支援事業

派遣期間:2013年9月24日~2014年4月9日
派遣国:フィリピン オーロラ州
派遣者 :看護師 渋谷美奈子

事業概要

2011年からフィリピンのオーロラ州ディラサグ郡において地域保健ボランティアの育成、保健衛生サービスの拡充、組織基盤の強化を目的にフィリピン赤十字社と日本赤十字社の二カ国間合意によって展開している保健医療支援事業です。私はフィリピン赤十字社オーロラ支部のスタッフとチームを組んで6か月間、主に小学校の保健啓蒙活動や地域ボランティアの教育に携わってきました。

感想

私が派遣された事業地のディラサグ郡はフィリピンの首都マニラから車で10時間以上かかる場所にあります。都市部と違い、トイレや手洗いのきちんとした設備や習慣がなかったり、入院施設のある病院というものが近隣になかったりする環境の中で、赤十字の活動の重要性とボランティアさんのパワーを感じました。小学校の例でいうとトイレのあと手を洗うという日本では普通の行為ですが、ディラサグでやろうと思うと井戸で水を組むところからはじめなくてはいけません。石鹸も手を拭くタオルもないところで、簡単に「トイレのあとは手を洗いましょう」とは言えないのです。そこで、手洗い場の施設を小学校に作ったり、石鹸を用意したりする設備面の整備はもちろん、なぜ手洗いが必要かの理解と正しい方法の指導、継続するための協力を先生も含めて行うことが必要になってきます。こうした赤十字の活動が継続していけばいいなと思うと同時に自分が関われたことをうれしく思います。普段の病棟看護師とは全く違う活動を行う中で、自分の恵まれた環境を知り、人間的にも成長できる機会となりました。

ウガンダ北部地区病院支援事業

ウガンダ北部地区病院支援事業

派遣期間 2011年11月22日〜2012年3月4日
派遣国  ウガンダ カランゴ
派遣者  山崎 隆志(整形外科医師)

概要:

ウガンダ北部は20年以上続いた内戦が終結し、2008年から村人が徐々に帰還していましたが、インフラは崩壊しており、特に保健医療サービスの復興が遅れていました。2009年にウガンダ赤から日赤に、パデル県のカロンゴ病院に外科医派遣の打診があり、2010年4月から外科医の派遣が始まりました。
カロンゴ病院は約300床の人口45万人のパデル県の唯一の病院です。内科医、小児科医、産婦人科医がいますが、外科医は不在で日赤から派遣された医師はインターンとともにすべての外科系疾患を扱う必要がありました。

感想:

2005年のスマトラ沖地震・津波救援以降、パキスタン洪水やハイチ地震など複数回の救援機会がありましたが、自分のスケジュールの都合で断念していました。2010年の秋に、本事業の企画者である大阪赤十字病院の中出国際救援部長から、カロンゴ病院への派遣要請があり、時期は問わないとのことでありましたので、2011年11月から2012年3月までカロンゴ病院で働くこととなりました。1998年のスーダン内戦救援で、発展途上地域の外科は整形外科医より一般外科医が望ましいことがわかっていましたが、参加希望外科医が少なく要員不足であったので、また、一人で外科医として働く救援にもう一度チャレンジしようという気持ちがわいてきたので、50歳後半でしたが参加しました。
スーダン内戦救援ではICRCからのヨーロッパ人外科医との仕事でしたが、今回はまだ医師になって1年目の若いウガンダ人外科医や医師なるまえのインターンとの仕事でした。ウガンダの人々は時間を守りませんし、片付けなどがいい加減です。また、突然薬の欠品が起こります。このアフリカンスタイルの仕事にまず慣れ、そして着実に事を進めることが重要でした。ここでもたくさんの症例を経験できて私の外科医としての実力が向上したと思います。
今回は若手医師の教育も仕事の一つでした。日本から持参したプラスチック製の骨の模型を使って、整形外科の話をすると本当に真剣に聞いてくれました。日本ではめったに出会わない、目力でそれを感じました。ウガンダの若手医師は非常に向上心が強く、医療設備や薬などのハードがそろえばすぐに医療レベルは向上するであろうと思いました。軸椎骨折という診断が難しい症例があり、レントゲンの読影所見を解説すると、インターンは自分の出身大学の機関紙に論文として投稿してくれました。若手医師の論文指導は日本での私の業務の一つですが、カロンゴでも同じことができてうれしかったです。インターンの交代時には院長を交えて、評価会議がありましたが、論文を書いたインターンには高い評価を付けました。
日本では医療は非常に細分化されています。整形外科でも脊椎、関節、外傷、腫瘍・・・と分かれていますが、カロンゴでは外科系全部みます。腹部外科、泌尿器科、脳外科、整形外科・・・全部です。さらに、CTやMRIの機器はなく、診断は外科医の五感が頼りです。一人の外科医という自分自身の資源を活用して、人を助けるという医療の根本に立ち返ることができます。このような経験ができる、国際救援に多くの若手外科医が参加してもらいたいと考えています。

インドネシア赤十字社ボゴール病院保健医療支援事業

派遣期間:2010年2月25日~2010年5月26日
派遣国:インドネシア共和国
派遣者:原田真理(薬剤師)

事業概要:

2005年から2011年までインドネシアの首都ジャカルタから南約60kmに位置するボゴール病院の医療サービス向上のために、医療資機材の支援と日本赤十字社の医療施設から医師や看護師等を継続的に派遣し、現地の医療スタッフへ助言や指導を行ってきました。

感想:

私にとって初めての海外派遣で、単身インドネシアに行かせて頂きました。
まず現地の医療状況の把握とスタッフと信頼関係を築くことに努め、その中で見えてきた現地スタッフが改善を望んでいる事や困っている事に取り組みました。
病棟業務・抗がん剤混合注射・栄養療法・災害救護など様々な分野に介入し、薬剤師のみならず他職種と関わり助言などをさせて頂きました。混合注射の手技を教えた時の熱心に取り組む薬剤師の姿が印象的でした。
休日には薬学を学ぶ学校や日本語を勉強している高校生がいる学校に訪問させて頂いたり、結婚式にも呼ばれて3ヶ月の間でなんと6回も参加したり、たくさんのインドネシアの方々と出会い楽しい思い出もいっぱいになりました。
この派遣で情報収集⇒計画⇒活動を一通り自分でどうにか考えてできたということが、少し自信となり今後の派遣の糧となりました。ですが、忘れてならないことは、活動は決して一人だけでは行えず、理解し協力してくれる方がいたからです。
期待と不安両方とても大きかった初派遣でしたが、インドネシア人の優しさと親切さに助けられ、国際救援薬剤師としての一歩を踏み出せました。
これからもボゴール病院の医療サービス向上とインドネシアの人々の幸せを願っています。

フィリピン共和国保健医療支援事業

派遣期間:2008年1月日~7月10日
派遣国:フィリピン共和国 キリノ州ナグティプナン郡
派遣者:梅野 幸恵(看護師)

事業概要 

日本赤十字社とフィリピン赤十字社との2か国間合意により2005年からキリノ州ナグティプナン郡の山岳地帯にある7つの村で、プライマリヘルスケアプロジェクトを展開しました。域保健ボランティアの育成、行政の組織基盤の強化、簡易診療所の建設、住民が安全な水を得られるよう簡易井戸の設置、衛生的なトイレを設置を行いました。
2008年1月~7月まで活動しました。遅れていた衛生的なトイレの設置や2つのヘルスステーションの建設、井戸の建設をモニタリングするため、7つの村を定期的に巡回しました。

感想

村々は同じナグティプナン群でありながら、キリノ支部のある場所から車で1時間以上かかる2つの山岳地帯に位置し、病院が遠く病気や怪我をしてもすぐに医者に診てもらうのは難しいため、自分達地で村人の健康を守るため、地域保健ボランティアは軽い怪我の簡単な手当、病気の予防を啓蒙するといった役割を担っていました。保健センターを併設した医療施設は小さな田舎街の中心にあり医師1人、看護師1人が在中しており、約17000人余りの人口をカバーしていました。医療設備も十分でないうえ、そこまでたどり着くのに2日かかる村もありました。

地域保健ボランティアは、軽い怪我の応急手当や病気の予防についての知識を村の住人にプレゼンするのにとても意欲的でした。しかし、自分たちで準備していたプレゼンの教材やスキルは、人によってもまちまちでした。そこで誰でも同じように分かりやすいプレゼンが出来るよう、地域保健ボランティアが普段使用するタガログ語の紙芝居形式で教材を作成し、実際にそれを使ってもらうようにしました。7村に教材を渡した時は皆さんとても喜んでもらい、ヘルスワーカーの自信も増し、これからも続けていきたいと言ってくれました。人材を育てることは、彼らが自分達で健康を守るため大切な支援だということを学びました